デスカンファレンスと看護師のグリーフケア

カンファレンス

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患者を看取ったあとに
デスカンファレンスしてますか

看護師さんには触れられたくない話題でしょうが、病院における点滴連続死事件で逮捕された元看護師の女性が、3人目の患者を殺傷した容疑で再逮捕されたという報道が流れた頃のことです。定期的に集まっては近況報告をしている看護職の友人3人とランチをご一緒したのですが、話題はその残念な事件のことに集中しました。

この件に関しては、先に、私なりに感じたり考えたりしたことを簡単な記事にまとめています。読んでいただけましたでしょうか。
⇒ 終末期ケアを担う看護師にグリーフケアを

今では「元看護師」の容疑者ですが、報道によれば、彼女が勤務していた病棟では、連日のように患者が亡くなっていたそうです。

そのような現場にいて、「いのちの終わりにかかわり続けることに、彼女は疲れてしまったのではないか」「そのやりきれない気持ちをチームの仲間と分かち合うようなことができていれば、こんな最悪の、人として決して許されない行為に至ることはなかったのではないだろうか」といったことを、その記事では書いています。

ランチをご一緒した友人たちも、ほぼ同じことを考えたようで、「患者さんを看取った後に、せめてデスカンファレンスで、自分たちがケアしてきた患者さんの死を悼むような、いわゆる“喪(も)の作業”ができていたら……」という話になりました。

看護師一人ひとりが
悲嘆(グリーフ)を語り合う

緩和ケア病棟やホスピスで始まったデスカンファレンスですが、最近では、急性期、慢性期の別なく、一般病棟においても徐々に行われているようです。

その日ランチをご一緒した一人、Oさんは、東京近郊の総合病院で急性期病棟の看護師長を務めています。彼女の病棟でも3年ほど前からデスカンファレンスに取り組んでいるそうですが、「なかなか思うようなデスカンファレンスになっていない」と言います。

ケアの振り返りで終わらないデスカンファレンスを

なぜなら、「亡くなられた患者さんに自分たちがしてきたケアを、あれでよかったのだろうかと振り返り、少しでも次の終末期ケアの質の向上につなぎたい、という観点からの話にどうしても終始しがちだから」と――。

これでは通常のカンファレンスと何ら変わりはない、とつぶやきつつ、こう続けます。「かかわってきた看護師一人ひとりの悲しみとか無念な思いを忌憚なく語り合って、看護師のグリーフケアにつなげることができればと思ってはいるのですが、なかなかそこまではいっていない……」

Oさんのこの話に、「私たち看護師には、自分の感情は少なくとも看護している現場では出さないようにしようという、ある種の自制心のようなものが常に働くから、デスカンファレンスの場といえども、自らの悲嘆の気持ちを打ち明けたりするのは難しいと思う」と話したのは、訪問看護師のKさんでした。

看護師がイニシアチブをとる
デスカンファレンスを

Kさんは訪問看護師としてのキャリアが長いのですが、最近初めて、病棟におけるデスカンファレンスに参加する機会を得たそうです。

3年ほど訪問してきた利用者が急変し、以前入院していた病院に救急搬送されたものの、1週間ほどでその病院で亡くなられるということがあったそうです。

この方のケアを振り返るデスカンファレンスを開くから「是非参加してください」と、病院側の退院支援担当の看護師さんから誘いを受けて出掛けて行ったとのこと。しかし、「私がイメージしていたデスカンファレンスとは程遠いものだった」と――。

Kさんによれば、そのデスカンファレンスには、看護スタッフに加え亡くなった患者の担当医も参加していて、カンファレンスはその医師がイニシアチブをとるかたちで進められていたそうです。

「だからどうしても、この患者さんはどうして亡くなったのかという病気と治療の経緯を医学的に説いて聞かせるような話が中心で、患者さんのケアに関する看護師の発言はあまりなかった。ましてや患者さんを看取った後の自分たちのこころの動きを吐露し合うなんてことは、とてもできる雰囲気ではなかった」

「この進め方では、デスカンファレンスに本来あるべきグリーフケア、いわゆる喪の作業としての意味はないのではないかと思った。やっぱり看護師がイニシアチブを握るようなデスカンファレンスでないと……」というのがKさんの正直な感想だったようです。

なお、Kさんが指摘する現状のデスカンファレンスが抱える課題については、早い時期からデスカンファレンスの必要性を説いている広瀬寛子さんが、著書『悲嘆とグリーフケアのなかで整理しておられます(p.201-205)。

現行のデスカンファレンスに満足されていない方には、この本の一読をおすすめします。あるいは、最近活躍が目覚ましい臨床宗教師が身近にいれば、その場に招いてみるのはいかがでしょうか。
⇒ デスカンファレンスに臨床宗教師の参加を

「対象喪失」感情を語り合うことが
相互のグリーフワークに

看護師、あるいは訪問看護師として仕事を続けていくからには「患者の死」に直面する事態は、おそらく避けて通れないでしょう。

このときの看護師さんのこころの動きについては、精神看護専門看護師の平井元子さんが『リエゾン―身体(からだ)とこころをつなぐかかわり  』のなかで、自らの体験を通して、多くのページを使い詳しく書いておられます(p.165-178)。

まずは読んでみていただきたいのですが、そのなかに出てくる「対象喪失」という心理反応の存在が、看護師さんのグリーフケア・グリーフワークということを考えるうえで大きな意味を持っているように、私は感じています。

自らの対象喪失感情に目を向けて

「対象喪失」について平井さんは、「人が大切に思っている人を失ったときに起こるさまざまな心理反応」であり、通常は配偶者や親、子どもなどの重要な他者を失ったときに起こる反応だが、一定期間に限り役割としてかかわるだけの看護師も経験する感情ではないか、と書いておられます。

実際のところ平井さんも、「私自身、何人かの患者との死別後に、このような心理反応を体験した」ことがあるとのこと。また、看護師数人へのインタビューからも、それぞれが印象に残る患者との別れのあとに、同様の心理反応を体験していることを確認できたとし、こんなふうに記しておられます。

もちろん、末期の患者を担当した看護師のすべてが、このような感情を経験するとは思っていいません。また、経験しなければならない感情でもありません。ただ、自分に何が起こっているのか、起こる可能性があるのかを知っておくことは必要だと思います。

引用元:『リエゾン―身体(からだ)とこころをつなぐかかわり』p.176*²

この自覚があってこそ、デスカンファレンスで自らの気持ちを語ることの重要性やグリーフケア・グリーフワークの意義を深く理解し、実践に持っていくことができるのではないかと思うのですが、いかがお考えでしょうか。

なお、看護師さん自らのグリーフケアについては、こちらで書いているようなとらえ方をしてみるのも一法です。

看取った患者のその後のケアは、「死後の処置」から「エンゼルケア」へと表現は変わったが、その内容はどう変わっているのか。葬儀社もエンゼルケアを提供する時代にあって、看護師によるエンゼルケアは、遺族と看護師双方のグリーフケアにつながるものであってほしい。

また、グリーフケアについて、「悲嘆とは何か」といったことから、グリーフケアの実践について、日本グリーフケア協会の要職にある著者らがわかりやすく解説するこちらの本を、一度じっくり読んでみてはいかがでしょうか。

参考資料*¹:広瀬寛子著『悲嘆とグリーフケア』(医学書院)

引用・参考資料*²:平井元子著『リエゾン―身体(からだ)とこころをつなぐかかわり (SERIES.看護のエスプリ)』(仲村書林)