安楽死とセデーションをめぐる看護師の困惑




やすらぎ

『やすらぎの郷』で描かれている
「逝き方」をめぐって

看護師のあなたは、テレビ朝日系列で今年(2017年)4月からスタートし、この週末に最終回を迎える予定のドラマ『やすらぎの郷』をご覧になったことがあるでしょうか?

脚本家の倉本聰さんが久しぶりに書き下ろされた脚本の下、石坂浩二さんを主役に、八千草薫さん、藤竜也さん、浅丘ルリ子さん、有馬稲子さん等々、かつて大スターとして数々の映画や舞台で主役を演じてきた俳優陣が名前を連ねていることで注目を集めているドラマです。

放送時間がウイークデーのお昼の時間帯ということもあり、毎日きちんとご覧になっている看護師さんはあまり多くはないでしょう。ただ、数人の看護師さんに聞いてみたところ、録画しておいて、勤務を終えてから視聴している方が結構いるようです。

高齢者それぞれの「その人らしさ」

実は私も、その録画組です。
「高齢者とは」といった教科書的な、通り一遍の解釈だけではなかなか知りえないような高齢者個々の「その人らしさ」をより深く知ることができるのではないだろうか――。そんなふうに考えて、見始めたわけです。
ただ、脚本を書かれた倉本さんが82歳というご高齢のこともあり、私には世代差ギャップというのでしょうか、話の流れに違和感を覚えるシーンが少なからずあり、当初は、気持ち的にあまり入り込めないまま見続けていました。

ところが、放送も残り10回ほどとなったところで、俄然興味がわいてきました。
看護師の友人とのメールや電話のやりとりのなかでも、この『やすらぎの郷』で描かれていること、とりわけ「人の逝き方」「看取り方」が話題にのぼるようになってきたのです。

つまり、「あの状態は緩和ケアとしてのセデーションによるものなのか」「あれでは、ドラマを見ている一般の方に、日本でも安楽死が容認されているかのような誤解を与えてしまうのではないだろうか」といったような話です。

「あんなふうに安楽死させてほしい」と
訪問先で懇願されて困っている

ドラマをご覧になっていない方には、まずはテレビ朝日のホームページ(こちら)で話しの流れとおおよその概要を頭に入れておいていただきましょう。
そのうえでの話になりますが、たとえば私が、「あれでは、日本でも安楽死はありなんだと思われてしまう」と大いに危惧したシーンが、第122話のなかにありました。
(2018年になり、このドラマのDVDが発売されています。人生の締めくくり方、逝き方を考えさせられる第122話は、やすらぎの郷 DVD-BOX IIIに入っています)

『やすらぎの郷』は、テレビ界に功績のあった人だけが無料で入ることのできる老人ホームです。そこの創設者は、長年にわたり「芸能界のドン」と誰もが認めてきた大物ですが、問題のシーンは、そのドンの最期を描いた部分です。

ベッドに横になっているドンが、主人公と息も絶え絶えに話をしていたのですが、やがておもむろに右手を顔に近づけ敬礼のかたちをとろうとしたところで、そのまま静かに息絶えて逝ったのです。激痛に苦しむでもなく、死への恐怖におののくでもなく、眠りに入るようにやすらかに逝ったその姿は、芸能界のドンと多くの人に尊敬されてきたというその人らしく、人生の見事な締めくくりで、うらやましささえ覚えるものでした。

眠るように息絶えて逝ったドンの最期

その一方で、「えっ、いくらドラマのなかでの話とはいえ、こんなふうに逝かせてしまっていいのかなぁー」と、少々いぶかしく思う気持ちにもなってきました。なぜなら、まさにその様子は、尊厳死というより安楽死に近いもののように、私には見えたからです。

そしてその懸念は、私だけの杞憂ではありませんでした。
そのシーンが放映された数日後、訪問看護師をしている友人のKさんから、とてもせつなそうな声で、こんな電話がかかってきたのです。
「がんの終末期で在宅療養を始めてそろそろ3年になろうという70代の患者さんが、やすらぎの郷のあのシーンを見たと話し、そろそろ自分もあの創設者のように安楽死をさせてほしいと、懇願されて困っている」と――。

「緩和ケアとしてのセデーション」
と、看護師としては伝えたい

日本における安楽死については、直近の出来事として、倉本さんと同じ脚本家の橋田寿賀子さんが2016年12月に、月刊誌『文藝春秋』で発表した「私は安楽死で逝きたい」という論考が大きな反響を呼びました。その考えを橋田さんは、今年になって一冊の本『安楽死で死なせて下さい (文春新書)』にまとめ、出版されています。

このことを契機に、著名人と呼ばれる立場にある人びとを中心に、さまざまな場で、その賛否を公然と論じ合い、理想の逝き方を模索するようになっています。

ただし、ここだけははっきりさせておくへきでしょう。
現時点で私たちの国では、たとえ助かる見込みがなく死期の迫った患者であっても、苦痛から解放するために致死量の薬物などを用いて死を選択する「安楽死」、いわゆる「積極的安楽死」は、法的に認められていません。

また、患者自身の意思により、たとえばすでに装着している人工呼吸器を外すなどのかたちで延命治療を中止して患者を死に至らしめる、いわゆる「消極的安楽死」も同様です。つまり、法制化されていませんから、違法と見なされるのが現状です。

安楽死と尊厳死ははっきり違う

現在、私たちの国で終末期にある人びとを痛みや苦痛から救う方法として唯一許されているのは、緩和ケアのまさに最終手段として選択される終末期セデーションです。この場合は、深い鎮静効果が期待できる鎮静剤が用いられます。

この鎮静剤は、耐えがたい呼吸苦をはじめとするさまざまな苦痛をかなりのレベルまで緩和することができます。ただ、並行して呼吸や循環を抑制し、意識レベルの低下をももたらすという副作用があり、そのまま患者は死に向かうことになります。
こうした経緯を踏まえ、緩和ケアとしての終末期セデーションを「間接的安楽死」と表現する専門家もいるようです。

ただ、先に 看護師と緩和ケアとしてのセデーション ‎で書いたように、セデーションの導入には、「患者本人、場合によっては家族の意思決定があること」が大前提になります。
また、セデーションはあくまでも症状緩和を目的に選択されるものであり、その結果として死に至るというものです。そもそも死を選択する安楽死とは明らかに一線を画するもので、むしろ尊厳死の範疇に入るんだろうと私は考えています。

この辺の交通整理については、まずは看護師さんに担っていただく必要があるだろうと思います。訪問看護師のKさんとも、両者はまったく別のものであり、現時点でこの国では安楽死は認められていないことを、「患者さんにはていねいに説明して納得してもらう必要があるわね」と考えが一致しました。

死が身近になっている時代の
看護師に求められる喫緊の課題

訪問先で患者から、ドラマでみた逝き方を安楽死と理解し、「同じように安楽死させてほしい」と懇願されたKさんは、安楽死と尊厳死について混乱している患者の認識を整理する努力をしたうえでの対応について、こんなふうに話してくれました。

「まずは担当医に、患者さんの今回の発言を伝えようと思う。そのうえで、ドラマのなかでの話なのではっきりしたことは言えないが、おそらくは鎮静剤によるセデーションという方法をとったのではないかと思われることを伝え、同時にその方法だったら検討の余地があること、そのためには必要な手続きがあることなどを、担当医と一緒に伝えていこうと思う」

一筋縄ではいかない難しい局面ですが、仮にあなたがKさんだったら、どんな手段をとるでしょうか。超高齢社会に突入し、死が身近なものになっている時代の看護師として、アドバンス・ケア・プランニングへの支援同様に、一度は真剣に考えておくべき喫緊の課題のように思うのですが、いかがでしょうか。