看護師の「やさしさ」と「おせっかい」

やさしさとおせっかい

患者が看護師に求める
「やさしさ」の質に変化が

一般の方に「看護師さんに望むことは何でしょう」と尋ねると、少し前までは「やさしさ」がダントツでトップに挙げられたものです。これが最近、少しずつ変化してきているように、私は感じています。

とは言っても、そもそも「看護する」という行為、広くいえば「ケア」と呼ばれているかかわりのおおもとにあるのは、相手のことを気にかけ、思いやる気持ちでしょう。だから人びとは、「看護師さんにやさしさはいらない」と言っているわけではないのです。あくまでも看護師さんにはやさしくあってほしいと望んでいるようです。

ただそのやさしさは、プロとしての知識や技術に裏づけられたやさしさであってほしいと、求めるやさしさの質が少し変化してきているように思えてなりません。

それはやさしさではなく
「おせっかい」との指摘を受けて

看護師さんには少し厳しい話で恐縮ですが、先日こんなことがありました。私の大先輩に、すでに後期高齢者と呼ばれる年代にあるものの、今もって現役で仕事を続けている女性編集者がいます。その先輩、Aさんが入院したとの知らせを受け、急遽入院先の病院に駆けつけたときのことです。

医師の診断は悪性リンパ腫ですが、幸いなことに比較的進行の緩やかなタイプとのこと。今回は1回目の化学療法を受けるための入院という説明でした。

30代のうちに緑の多い静かな郊外にマンションを購入し、そこでずっと独身生活を続けてきた彼女は、私にとって自立した女性の模範のような存在です。

高齢のがん患者として見られることへの不満

お見舞いに病室に入っていくと、Aさんは待っていたように私に不満をぶつけてきました。「検査や治療自体はたいしたことないけど、気持ちが毎日きゅうくつでつらい」と――。さらにその理由を、こんなふうに訴えてきたのです。

「看護師さん側にすれば、私はがん患者であると同時に高齢患者という理解になるのでしょうね。だから、とりわけ高齢者という部分で気を使って、私が自分でできるかどうかにはいっさいおかまいなく、なにかにつけて手を貸そうとするのよね」

さらに続けて、「転倒を心配してでしょうけど、夜中にトイレに行くときはコールするようにと繰り返し声をかけてくれるし、検査や治療の説明も、認知能力が落ちているとでも思っているのか、同じ説明を幾度となく繰り返してくれる」のだと。

「だけど、そういったことは看護師としての配慮でもないし、やさしさでもない。単なるおせっかいとしか私には思えない……」と言うのです。

患者の意を汲みながら
気にかけるのが「やさしさ」

では、Aさんが看護師さんに望むやさしさとはどのようなものなのでしょう。私のこの問いに、Aさんはこう即答してきました。

「私のこと、私らしさということをきちんと理解したうえで、自立心や自尊心を傷つけないようにお世話してくれるのが、やさしさの絶対条件ではないかしら」

彼女曰く、看護師さんは、大学などで医学や看護学、心理学、社会学など、幅広い専門教育を受けています。その学んできた専門知識と積み重ねてきた経験知とを総動員すれば、目の前にいる患者を客観的に理解して、できることとできないことを見分けたうえで、さらにそのときどきの患者の意を汲んで過不足なくかかわることができるのではないか――。

「高齢者だから」「悪性リンパ腫の患者だから」「抗がん剤による治療中の患者だから」という通り一遍の理解に立った一方的な思いだけでかかわられるのは、患者にとってはおせっかい以外の何物でもない――。

このようなAさんの厳しい言い分に、どちらかといえば看護師さん寄りの私ですが、納得の得られる言葉を返すことができませんでした。

プロとして認めるからこそ
真のやさしさが求められる

ここでちょっと断っておきますが、Aさんは出版界で長く活躍しておられる方で、ジャーナリストとして人を見る目やものの良し悪しを見分ける目はかなり長けています。ただし専門領域は教育で、医療や健康について特別明るいわけではありません。

とは言え、このところの新聞をはじめとするマスメディアでは、「がん患者のターミナルケア」「高齢者ケア」「訪問看護」「在宅ケア」……などなどの言葉が並ぶ医療関連記事が連日のように取り上げられています。

そこで紹介される看護師さん等の発言や仕事ぶりから、看護師さんの仕事とか専門性といったことに対する人びとの理解は、「なるほどね。看護師さんってそんなことまで考えながら仕事をしているんだ」という具合に、深まりつつあると言っていいでしょう。

その専門性、つまり「看護師は何をする、あるいは何ができるプロなのか」ということに、その人なりの理解があるからこそ、人びとが看護師さんに求めるものが単なるやさしさではなくなってきているのではないでしょうか。

おそらくAさんはその代表格なんだろうと、お見舞いを終えて自宅に向かう道すがらつくづく考えさせられたものです。

看護師のやさしさは
その人が持っている力への視点から

先に私は、看護師さんが日々の看護で大切にしておられる「その人らしさ」ということについて記事をまとめました。読んでいただけましたでしょうか。

看護現場を取材していると「その人らしさを尊重する」ことが「よい看護」の代名詞のような印象を強く受ける。では、この「その人らしさ」をどう理解し、日々の看護にいかに生かしていけば、その人らしさを大切にした看護になるのだろうか。

有難いことにこの記事はとても好評で、アクセス数も日に日に増えてきています。「病棟の勉強会の資料にさせていただいた」という、大変ありがたい声もいくつか頂戴しています。

先の話に戻りますが、Aさんは、「私が自分でできることなのかどうかにはいっさいおかまいなく手を貸そうとする」ことは「看護師さんのやさしさではなく、おせっかいだ」と指摘していました。おせっかいによって、「気持ちがきゅうくつでつらい」とも――。

こんなふうに言わせてしまうAさんへのかかわりは、看護が常に大切にしているはずの「その人らしさを理解し、尊重してかかわる」という配慮、つまり「その人が今持っている力」を最大限生かせるようにかかわろうとする姿勢に欠けるところがあったからではないかと思うのですが、いかがでしょう……。

そこでお見舞いに伺った二日後、Aさんにこんなメールをしてみました。

「言いたいことを胸にしまっているのは先輩らしくありません。病気にもよくありませんから、私に話してくれたことを率直に担当の看護師さんなりに伝えてみたらどうでしょう。きっとわかってもらえると思います。ただし、少しマイルドなトーンでお願いします!」

これに、その日のうちに「少なくとも担当の看護師さんには、私の言いたいことはわかってもらえたようだ」旨のメールが届きました。

少しホッとしつつ、「わかり合う」ためにはやはり億劫がらずに、あるいは遠慮せずに気持ちを伝え合うことが大事なんだと、改めて実感させられた一件でした。同じ様な話をこちらの記事で紹介しています。こちらも読んでみてください。

多職種との連携ツールとして定着しつつあるICFだが、問題思考アプローチに慣れた看護職はまだ使いこなせないと聞く。では残存機能を活かす発想でICFをとらえてはどうか。プラスとマイナスの両面をバランスよく見ていくことで「できることを奪わない」看護実践を。