「ナッジ理論」を応用して行動変容を引き起こす

フィジカルディスタンス

本ページはプロモーションが含まれています。

コロナ対策の行動変容に
活躍したナッジ理論

新型コロナウイルスが海外から飛び火し、国内で新規感染者数が日を追って増えはじめた頃だったと記憶しています。当時、政府の新型コロナウイルス感染症専門家会議で会長を務めていた尾身茂氏が記者会見で、「徹底した行動変容をお願いしたい」と国民に呼びかけたことがあります。ただそのときは、「行動変容って?」という反応が多かったものです。

ところが、ほどなくして私たちは、たとえばスーパーやコンビニのレジに並ぶ際、前の人と一定の距離を保って並んでいました。尾身会長が感染対策として再三徹底を求めていた「フィジカルディスタンス(身体的距離)を保つ」という行動が、さほど抵抗もなくできていたのです。これこそまさに、「感染対策としての行動変容」でした。

このような行動変容が成功する背景には、「ナッジ理論」の効果的な応用があるという話をちょくちょく耳にするようになりました。

一方で、「えっ、ナッジ理論って?」という方も少なくないと聞き、今回はこの「ナッジ理論」についてちょっと書いてみたいと思います。

フィジカルディスタンス確保に
ナッジ理論を取り入れる

コロナ以前、スーパー等でレジに並ぶ際にとる前の人との間隔は、2、3歩程度といったところでした。それが最近では、最短でも1mほどは空けて立つようになりました。

これは、床に立ち位置を示すテープが貼ってあるからです。床に貼られたテープの意味を深く考えることもなく、あたかもかねてからの約束事のように、私たちは抵抗なくその位置に立って並んでいます。そうすることで、自然とフィジカルディスタンスを保ち、人との密接・密集により感染リスクが高まるのを抑止する感染防止行動をとっているわけです。

これは、人々にちょっとしたきっかけを与えて、一定の行動を促すという行動経済学の理論、「ナッジ理論」をコロナの感染対策に取り入れた成功例の一つです。

たとえば市区町村役場のなかには、訪れた人に手指衛生を促すために、入り口から消毒液が設置された場所まで矢印の付いたテープを貼って誘導しているところがあります。これもナッジ理論を取り入れた感染対策です。

そっときっかけを与えて
よい選択への行動変容を促す

ナッジ理論の「ナッジ」とは、英語のnudgeです。直訳すると、「肘で軽くつつく」「背中をやさしく押す」「後押しする」という意味です。それが転じて、「ちょっとしたきっかけを与えて行動変容を促す」方法として、まずは行動経済学の分野で研究対象となりました。

2017年には、この理論の提唱者である経済学者のリチャード・セイラ―博士と、ハーバード大学のキャス・サンスティーン教授が、この理論でノーベル経済学賞を受賞しています。

そして今回のコロナ対策に見るように、わが国の健康関連分野においても、健康行動の変容に、この理論が積極的に取り入れられるようになっています。

説明よりも行動に至るきっかけの提供を

たとえば、厚生労働省がWebサイトで公開しているがん検診に関する「受診率向上施策ハンドブック」は、まさにナッジ理論に基づいた取組みの事例集です。そこには、国がすすめる健康診断やがん検診の対象者でありながら受診行動を起こそうとしない人に、必要性を説明するのではなく、「行動に至るきっかけを提供する」ことにより、検診受診率を改善した取組みの実践例が紹介されています。

そこでは、「ナッジ理論は、人の行動は不合理であることを前提にしている」、と説いています。つまり、人というものは概して、常に論理的に熟考し、合理的な判断のもとに行動しているわけではない。むしろ、面倒なこと、負担になることは避けたいという本能や感情に基づく直感的な思考のもとに行動を起こしていることが多い、というわけです。

だから、逐一説明して頭でわかってもらおうとするよりも、より最適な選択ができるようにちょっとしたきっかけを与えてあげたほうがより行動変容につながりやすいのだ、というのがナッジ理論です。大事な点は、無理強いや強制をしないことです。

ナッジ理論の医療への応用については『医学のあゆみ ナッジ理論の医療への応用 275巻8号[雑誌]で特集を組んでいます。「高血圧予防のためのナッジによる減塩」など、興味深い論文が掲載されています。

ナッジ理論を応用して
医療・介護の職場環境を改善

医療や介護の現場で働くスタッフの職場環境の改善を図るためにも、ナッジ理論を応用した取り組みが進んでいます。

その推進役を担っているのが、医療・介護勤務環境改善ナッジ研究会です。この研究会の会長を務める小池智子さん(慶応義塾大学看護医療学部/大学院健康マネジメント研究科・准教授)は、当研究会のサイトでナッジ理論をこんなふうに説明しています。

「ナッジ」は、強制することなく選択の余地を残しながら、人々の行動をよりよい方向に誘導する、または最適な選択ができない人をよりよい方向に導く仕組みのことです。

(引用元:医療・介護勤務環境改善ナッジ研究会Webサイト「会長挨拶」)

ナッジ理論は、従来はなかった新しい問題解決アプローチです。課題山積で手詰まり感が強い医療・介護の現場において、強制されずにごくごく自然によい行動がとれる環境が醸成されるナッジ的介入は、残業の削減や医療安全の促進等、職場環境の改善につながることが期待できる、と小池さんは説明しています。

ナッジ理論を応用した
ユニフォーム2色制で残業削減

一例を挙げると、厚生労働省からの働き方改革委託事業として日本看護協会が実施する「看護業務の効率化 先進事例アワード2019」で最優秀賞を受賞した熊本地域医療センターの取組みは、ナッジ理論の応用例です。

当センターは2014年、看護師さんのユニフォームを勤務帯により色分ける「ユニフォーム2色制」を取り入れています。これにより、当看護部にとっては長年喫緊の課題だった残業を劇的に削減することに成功しているのです。

ユニフォームを色分けしてシフトを見える化

日勤は赤、夜勤は緑とユニフォームの色分けをしたところ、勤務者なのか非勤務者、つまり残業で残っているスタッフなのかが一目で見分けられるようになったとのこと。このことが時間外労働の削減、ひいては毎年数十人いた離職者がほぼゼロになるという成果を生み、業務がいっそう円滑に回るようになった、と報告しています。

取組みの詳細は、当センターのWebサイトで動画*⁴にて紹介されていますから、関心のある方は是非そちらをご覧ください。

時間内に仕事を終えることの必要性を伝えるだけでなく、ユニフォームの色の違いにより時間外労働を見える化するというまったく斬新な発想を取り入れたことは、まさにナッジ理論応用の好例であり、それが成功につながったと言えそうです。

ナッジ理論を応用した「ユニフォーム2色制」を導入して残業時間を削減するなどの働き方改革に取り組む医療機関は全国に広がり、鳥取大学医学部付属病院、福井大学医学部付属病院、金沢医科大氷見市民病院、北海道立北見病院、北見赤十字病院、九州がんセンター、南部徳洲会病院などが取り組みを公表している。
マスク2色制の取り組みも:滋賀県甲賀市の仁生会甲南病院(広瀬京子看護部長)では、ユニフォームではなくマスクを2色制にすることで、ランニングコストを抑えながらユニフォーム2色制と同様以上の効果を上げていることが、2023年6月8日の産経新聞で紹介されている。

行動変容の基本を知りたい方に

なお、ナッジ理論以前の話として、そもそも行動変容について基本的なことを知りたいという方もいるでしょう。

そんなあなたには、行動変容の入門書として『実践 行動変容のためのヘルスコミュニケーションー人を動かす10原則』(大修館書店)をおすすめします。

参考資料*¹:厚生労働省「受診率向上施策ハンドブック」第2版

参考資料*²:『医学のあゆみ ナッジ理論の医療への応用 275巻8号[雑誌]

引用・参考資料*³:医療・介護勤務環境改善ナッジ研究会

参考資料*⁴:熊本地域医療センター「看護業務の効率化先進事例アワード2019」取組み動画