「ナッジ理論」を応用して行動変容を引き起こす




フィジカルディスタンス

コロナ対策の行動変容に
ナッジ理論を応用

新型コロナウイルスがあっという間に海外から飛び火し、国内における新規感染者数が日を追って増えはじめた今年2月下旬だったと記憶しています。

当時、政府の新型コロナウイルス感染症専門家会議で副座長を努めていた尾身茂氏(現在、新型コロナウイルス対策分科会・会長)が記者会見で、
「徹底した行動変容をお願いしたい」
と国民に初めて呼びかけたときは、「行動変容って?」といった反応が多かったものです。

ところが、あの記者会見からさほど経っていない最近の私たちは、たとえばスーパーやコンビニのレジに並ぶ際、前の人と一定の距離を保って並んでいます。

尾身会長が、新型コロナの感染対策として再三徹底を求めている「フィジカルディスタンス(身体的距離)を保つ」という行動が、さほど抵抗もなくできているのです。
これこそまさに、言うところの感染対策としての行動変容です。

このような行動変容が成功している背景には、「ナッジ理論」の効果的な応用があるという話をちょくちょく耳にするようになりました。

一方で、「えっ、ナッジ理論って?」という方も少なくないと聞き、今日はこの「ナッジ理論」についてちょっと書いてみたいと思います。

フィジカルディスタンス確保に
ナッジ理論を取り入れる

従来スーパー等でレジに並ぶ際にとる前の人との間隔は、2、3歩程度といったところでしょうか。
それが最近では、最短でも1m以上は空けて立つようになりました。
これは、床に立ち位置を示すテープが貼ってあるからです。

床に貼られたテープの意味を深く考えることもなく、あたかもかねてからの約束事のように、私たちは抵抗なくその位置に立って並んでいます。

そうすることで、自然とフィジカルディスタンスを保ち、人との密接・密集により感染リスクが高まるのを抑止しようという感染防止行動をとっているわけです。

これは、人々にちょっとしたきっかけを与えて、消費者に行動を促すという行動経済学の理論、「ナッジ理論」を新型コロナウイルスの感染対策に取り入れた成功例の一つです。

たとえば市区町村役場のなかには、訪れた人に手指衛生を促すために、入り口から消毒液が設置された場所まで矢印の付いたテープを貼って誘導しているところもあります。
これもナッジ理論を取り入れた感染対策です。

エレベーターなどでもナッジ理論を取り入れ、床面に人が立つ位置をテープなどで丸で囲って示し、乗り込める人の数を制限して密集を避けると同時に、エレベータ内でのフィジカルディスタンスの確保を促しています。

ちょっとしたきっかけを与え
健康行動の変容を促す

ナッジ理論の「ナッジ」とは、英語のnudgeです。
直訳すると、「肘で軽くつく、背中をやさしく押す」といった意味です。

それが転じて、「ちょっとしたきっかけを与えて、行動変容を促す」方法として、まずは行動経済学の分野で注目の研究対象となりました。

2017年には、この理論の提唱者である経済学者のリチャード・セイラ―博士と、ハーバード大学のキャス・サンスティーン教授が、この理論でノーベル経済学賞を受賞しています。

そして今回のコロナ対策に見るように、わが国の健康関連分野においても、健康行動の変容に、この理論が積極的に取り入れられるようになっています。

説明よりも行動に至るきっかけの提供を

たとえば、厚生労働省がWebサイトで公開しているがん検診に関する「受診率向上施策ハンドブック」*¹は、まさにナッジ理論に基づいた取組みの事例集です。

そこには、国がすすめる健康診断やがん検診の対象者でありながら受診行動を起こそうとしない人に、ただその必要性を説明するのではなく、「行動に至るきっかけを提供する」ことにより、検診受診率を改善した取組みの実践例が紹介されています。

そのなかで、ナッジ理論は「人の行動は不合理である」ことを前提にしていると説いています。
つまり、人というものは概して、常に論理的に熟考し、合理的な判断のもとに行動しているわけではない。むしろ、面倒なこと、負担になることは避けたいといった本能や感情に基づく直感的な思考のもとに行動を起こしていることが多い、というわけです。

だから、逐一説明して頭でわかってもらおうとするよりも、より最適な選択ができるようにちょっとしたきっかけを与えてあげたほうがより行動変容につながりやすいのだと――。
これがナッジ理論です。

ナッジ理論を応用して
医療・介護の職場環境を改善

医療や介護の現場で働くスタッフの職場環境の改善を図るためにも、ナッジ理論を応用した取り組みが進んでいるようです。
その推進役を担っているのが、医療・介護勤務環境改善ナッジ研究会です。

この研究会の会長を務める小池智子さん(慶応義塾大学看護医療学部/大学院健康マネジメント研究科・准教授)は、当研究会のWebサイトでナッジ理論をこんなふうに説明しています。

「ナッジ」は、強制することなく選択の余地を残しながら、人々の行動をよりよい方向に誘導する、または最適な選択ができない人をよりよい方向に導く仕組みのことです。

(引用元:医療・介護勤務環境改善ナッジ研究会Webサイト「会長挨拶」)*²

ナッジ理論は、従来はなかった新しい問題解決アプローチです。

課題山積で手詰まり感が強い医療・介護現場では、強制されずごくごく自然によい行動がとれるような環境が醸成されるナッジ的介入は、残業の削減や医療安全の促進等、職場環境の改善につながることが期待できると、小池さんは説明しています。

ユニフォーム2色制により
違いを見える化して残業削減

一例を挙げると、厚生労働省からの働き方改革委託事業として日本看護協会が実施する「看護業務の効率化 先進事例アワード2019」で最優秀賞を受賞した熊本地域医療センターの取組みは、ナッジ理論の応用例です。

当センターは2014年、看護師のユニフォームを勤務帯により色分ける「ユニフォーム2色制」を取り入れています。これにより、当看護部にとっては長年喫緊の課題だった残業を劇的に削減することに成功しています。

日勤(8:30~17:15)は赤(バーガンディ)、夜勤(16:30~9:15)は緑(ピーコックグリーン)とユニホームの色分けをしたところ、勤務者なのか非勤務者、つまり残業で残っているスタッフなのかが一目で見分けられるようになったとのこと。

このことが時間外労働の削減、ひいては毎年数十人いた離職者がほぼゼロになるといった成果を生み、業務がいっそう円滑に回るようになったと報告しています。

取組みの詳細は、当センターのWebサイトで動画*³にて紹介されていますから、関心のある方は是非そちらをご覧ください。

時間内に仕事を終えることの必要性を伝えるだけでなく、ユニフォームの色の違いにより時間外労働を見える化するというまったく斬新な発想を取り入れたことは、まさにナッジ理論応用の好例であり、それが成功につながったと言えそうです。

参考資料*¹:厚生労働省「受診率向上施策ハンドブック」第2版
引用・参考資料*²:医療・介護勤務環境改善ナッジ研究会
参考資料*³:熊本地域医療センター「看護業務の効率化先進事例アワード2019」取組み動画